団子の魔力、あなどれません
焼きたての団子の香ばしい匂いがふわっと立ちのぼると、それだけで人の足が止まります。
「わあ、いい匂い!」「これ、どこかお店あるんですか?」と、自然と声がかかる。
団子というのは、美味しいだけではなく、人と人との距離を一瞬で縮めてしまう、不思議な力を持っていると感じています。
私が施設の喫茶店で団子を出していたころも同様でした。
その時も子どもからお年寄りまで、いろんな方が笑顔で団子を頬張っていました。
美味しさを共有するというたったそれだけのことが、驚くほど自然に人の心をほぐしてくれるのです。

居場所=“居処(いどころ)”という、ぬくもり
「居場所」という言葉の、もともとの表現は「居処(いどころ)」だったそうです。
私はこの言葉が大好きで、「背中を見せ合える」とか、「お尻を安心して預けられる」なんていう、ちょっと笑っちゃうような意味を含んでいます。
ゴルゴ13はいられないかもしれません。(分かる人には共感してもらえるはず)
でも、その意味って本質をついてるなと思うんです。
その喫茶店は障害者への理解を掲げながらも、地域の中の居場所としての立ち位置を持ちたいと思っていました。
立場や肩書きに関係なく、ふらりと立ち寄って、ふわっといられる空気を持っていたように思います。
お客さんも、私たち職員も、障害のある人も、誰かの役に立つとか役割を果たすとか、そんな肩に力の入った関係ではなく、ただ「ここにいてもいい」と思える、“居処”があったのです。
驚きと笑いが、ふっと心をほどく
その喫茶店では、障害のある方がウェイターとして働いていました。
注文を繰り返してしまったり、突然独り言をつぶやいてお客さまを驚かせてしまうこともあって、正直に言えば、私は最初「大丈夫かな…」と不安になることもありました。
でも実際には、そこで怒って帰ってしまう人はいませんでした。
「なんだか可愛いね」「一生懸命で応援したくなるね」と、お客さんたちの方が笑ってくれて、時には周りの人が自然にフォローしてくれる。
言葉が通じ合わない瞬間もたくさんありました。
けれど、それを無理に正そうとするのではなく「そういう人なんだね」と、そのままを受け入れてくれる空気があったのです。
それはコミュニケーションは必ずしも対話だけでなくてもいいんだ、ということをはっきりと私に教えてくれました。
むしろ、不器用な関わりの中にこそ、人のぬくもりがにじむ瞬間があったように思います。
対話と呼ぶには、少し足りなかったかもしれません
今振り返ると、あの喫茶店での関わりは「対話のようなもの」ではあっても、本当の意味での対話にはまだ遠かったように思います。
相手の言葉の奥にある思いにもっと耳を澄まし、そこから一緒に考えたり、迷ったり、答えを急がずにいられるような、そんな対話ができていたら——
きっともっと多くの人が、地域の中で障害のある人たちの存在を、自然なかたちで感じられていたかもしれません。
それでも、あの場所がたしかに「居処」だったことは間違いありません。
“対話の入口”としての場にはなっていたのだと思っています。
今も団子は、こっそりと繋がりをつくっています
現在、私は施設を退職したので、イベントのときだけ団子を焼いています。
でも、そのたびに「この匂い、なんだか懐かしいね」「またお会いできて嬉しい!」と、お客様からたくさんの声をかけていただいています。
団子を通して、地域の人たちと気さくに言葉を交わせる、その雰囲気は今もちゃんと続いています。
お団子をきっかけに、ふと立ち寄り、ふと会話がはじまり、ふと笑い合える。
そんな“ふと”が重なると、人と人との間にやさしい繋がりが生まれていくのだと思います。
これからの団子と、これからの対話
私はこれからも団子を焼き続けたいと思っています。
ただそれは団子が売れたら嬉しいから、というだけではありません。
お団子をきっかけに、もっとゆるやかで、もっと本質的な対話が生まれてほしいからです。
そして、その対話の積み重ねが「障害者」と「健常者」という分け方の意味を少しずつ薄めていってくれると信じています。
誰もが自分のままで、誰かとつながれること。
笑って、驚いて、時々団子のタレを服にこぼしたりしながら、それでも「ここに居ていい」と思える空気。
そんな“居処”を、これからもつくっていきたいと思っています。
ゴルゴ13も居られるような…(しつこいw)
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