〜支援の場で「対話」が必要な理由〜
「対話が大事だよね」って、支援者の世界ではよく聞く言葉。
でも実際の現場では、「今それどころじゃない」「話しても変わらない」と後回しにされてしまうことがあると思うんです。
私も支援員だった頃、何度もそういう壁にぶつかりました。
でも、ある“夏の日の出来事”が、対話の本当の大切さを私に教えてくれました。
気温38度、そして“予定通り”の支援
私がいた施設では、毎年夏のお祭りにみんなで参加するのが恒例でした。
イベントで歌って、踊って、それからグループごとに出店をまわる──という流れ。
でも、その年は特に暑いだろうという予想。
事前の会議で私は「今年は水分補給のタイミングを見直さないと危ない」と訴えました。
でも返ってきたのは、「毎年、飲み物はイベント後に渡してるから大丈夫でしょ」という声。
……本当にそれで大丈夫?
不安を抱えながら、当日を迎えました。
“勝手に”水を飲ませた私

気温38度、直射日光の下で真っ赤な顔をして歌っている利用者を見て、私は思いました。
「これはもう、水を飲ませないわけにはいかない」
もちろん、報連相の重要性はわかっています。でも、命に関わる場面で上の許可を待っていたら遅い。
言葉で「水を飲みたい」と表現できない人の代わりに、現場が判断することは支援の基本だと思うのです。
上からの“指示”はなかったけれど、そのままにしておくほうがよっぽど無責任だと思った。
だから私は、自分の判断で水を飲ませました。
そして──案の定、次の会議で怒られます。
「勝手なことをするな」って。
でも、私は譲れなかった。
水が必要なのは“暑いから”じゃない。
“暑くてしんどい”と伝えられない人にこそ、先回りの配慮が必要なんだって。
足りなかったのは、「正しさのぶつけ合い」じゃなくて…
この件は最終的に、「言葉の上では私が折れる」という形で幕引きになりました。
でも次の年からは、イベント参加時に各自が飲み物を持参することが決まったんです。
つまり、やっぱり水分補給は“必要だった”。
それなら、なぜあんな形で終わらなければならなかったんだろう。
もっと他の職員も交えて、あの時感じた不安や想いを共有できていたら──
対話の場がちゃんとあったなら、怒りや悔しさだけじゃなく、「みんなで気づけた」という実感が残っていたかもしれないと思ったんです。
それと同時に会議の席で自分の思いを話せない職員の多さにも。
対話には、「上下の壁」を壊す力がある
現場にはまだ、「上の言うことが正しい」という空気が根強く残っているかと思います。
でも、支援の現場で必要なのは“命令、指示”じゃなくて、“気づき”の共有です。
対話を通じて、自分の考えの偏りに気づく。
相手の考えを知る。
対話は利用者の理解を深めるだけでなく、職員同士の信頼やチームワークを育てるためにも不可欠な営みです。
立場や役職を越えて、お互いが何を大事にしているかを話し合える土壌。
それがなければ、現場はどこかぎこちなくて、利用者にもしわ寄せがいく。
支援って、マニュアルやルールだけじゃ動かせないんですよね。
誰かの直感や気づきが、本当に人を救う瞬間もあるから。
自己認識できてる?──“対話”のもう一つの役割
それからもうひとつ、大事だと思っているのは「自己認識」。
支援者自身が、自分の考え方のクセや“正しさ”の傾向に気づいていないと、突っ走ってしまいやすい。
私も、あのとき「水を飲ませる」判断は間違ってないと思ってたけど、
それをどう伝えるか、どう共有するかまでは見えていなかった気がします。
正しさが正義である!という突っ走る気持ちだけだったんです。
今になって思えば、あの時対話ができていたら本当に良かったと思い返します。
対話は、“正解”を出すためじゃなく、“視野”を広げるためにあるんだと思うんです。
違う考えと出会うことで、自分を少し立ち止まらせてくれるような。
対話は、誰のためにあるのか
結局、対話って誰のためにあるのか?
それは──利用者のためであり、職員のためであり、組織のため、もちろん自分のため。
言ってしまえば、“みんなのため”なんです。
誰かひとりが声をあげなくてもいいように。
支援の不安を、支援者がひとりで抱えなくていいように。
「正しさ」ではなく、「納得感」。
誰かの決定ではなく、みんなでつくる支援のカタチ。
その一歩は、立場を超えて語り合うことから始まるのだと思っています。
ちょっと時間がかかっても、じっくり、ちゃんとね。
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