スタートラインに並ばされて、走らされていない?
生きていると、ふとした瞬間にこんなふうに思うことってありませんか?
「なんで私は、“できるようにならなきゃ”って焦ってるんだろう?」って。
まるで生まれてきたことが、スタートの合図で、そこから始まる障害物競争のような。
大人になった今でも次々と現れるハードル。
くぐる、またぐ、飛び越える…。

でもその障害って、ほんとうに“乗り越えなきゃいけない”ものですか?
スマホがあるのに、おつりの計算をしなきゃいけない?
障害者支援の現場で、よくある「買い物支援」。
「お金の出し入れができるように練習しましょう」
「おつりを自分で計算してもらいましょう」
でもそれって、“必須”なんでしょうか?
今や多くの人がスマートフォンを持ち、キャッシュレスで「ピッ」と支払えば済む時代。
計算が苦手なら、電卓アプリを使えばいい。
それすらも面倒なら、スマホにお任せすればいい。
それを「努力不足だ」「ズルだ」って言う人がいるなら、その“正しさ”の方が、よっぽど時代遅れなんじゃないって思っちゃうんです。
できなさは、社会を動かすエンジン
そもそも、計算機を作る人たちは、計算が苦手な人がいるからこそ必要とされています。
“できない誰か”のおかげで、“誰かの仕事”が成り立っている。
つまり、「計算ができない誰か」の存在が、「それを助ける誰か」の役割や生業と化している。
“できなさ”があるからこそ、社会には役割が生まれ、助け合いが必要になる。
人が人を支え合って生きるって、そういう“できないこと”と“できること”の繋がりのことなんじゃないかと私は思っています。
「挑戦したい」が「やらなきゃ」に変わる瞬間
障害物競争が本来の目的を見失わせることがあります。
本当は「その障害物を越えてみたい!」というチャレンジの気持ちだったのに、いつの間にか「やらなきゃいけない」にすり替わってしまうこと。
例えば、走ってみたい!とチャレンジしたのに、走るスピードが遅いと「練習不足」と言われ、立ち止まると「サボってる」と見なされる。
でも、生きている中の障害物を越えることは順位を競うレースじゃない。
誰かと比べて速くゴールする必要なんてどこにもないし、そんな窮屈な生き方はしなくていいんじゃない?
その山を越えない選択だってありでしょ

途中で難しいなと思ったら、無理に山を越えなくたっていい。
トンネルでくぐって行ってもいいし、脇道を進んでもいいし、そもそも、別の山を歩いたっていい。
でも、「越えたい」と思ったときに、「一緒にどう越える?」と語り合える誰かがいたら最高ね。
そんな支援者がいたら、みんな色んなことにチャレンジしたくなるんじゃないかな?
「できること」だけが正解ではない
“できる・できない”で価値を決める世界は苦しみを生みます。
わたしたちは競争して生きてるんじゃない。
支え合って生きている。
それなら、「できない自分」も、「できないあなた」もそのままでもちゃんと社会の一部でいられる方が、居心地いいと思いませんか?
できないことがあるという事実よりも「あなたがいてくれてよかった」と思える関係性の方が、きっと生きる力になる。
障害物の向こう側に必ず“正解”があるわけじゃない。
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