必要なのは「予測しない力」

「このくらいはできるだろう」は危ない

毎日の人間関係の中で、「この人はこう言うだろうな」「これくらいはやってくれるだろう」と、つい“予測”してしまうことがあります。
でも、その予測が外れたときに生まれるのは、イライラやガッカリ、もしくは「なんで?」という怒りだったりしませんか?

しかもその予測って、相手のためじゃなくて、自分が安心するためにしていることがほとんど。
「きっとこうなるだろう」「こうしてくれるだろう」と思っていると、それに反した行動が出たきた途端、相手が“困った存在”に変わってしまう。

「できるだろう」の期待が押しつけになることも

支援者として言うなら、障害のある方に対して、「このくらいはできるはず」「前にもできたから、今回もできるよね」といった予測ベースの支援をすると、無自覚に“課題”が膨らんでいくことがあります。

そういうときに「嫌だ」「無理」と言ってもらえればいいけれど、言えない人だったら?
言えない理由が「相手を傷つけたくない」というやさしい人ほど頑張ってしまいがち。
でも、それが無理につながり、燃え尽きにつながり、自分を責める結果になることもある。
本人の気持ちではなく、「前回のデータ」を元にして関わることで、今この瞬間にいる“目の前のその人”を見落としてしまいがちです。

「予測しない=何もしない」ではない

ここで誤解してほしくないのは、「予測しないこと」が「何もしないこと」ではないということ。
大切なのは、“今の姿”を丁寧に見て、一緒に未来を考えること。
つまり、「一方的に決める」のではなく、「一緒にどうするかを探す」っていう姿勢なんです。

未来はわからない。
だからこそ、対話が必要なんです。

ノストラダムスの予測という安心

「1999年7の月、空から恐怖の大王が降ってくる」──
かつてノストラダムスの予言が大流行したことがありました。
あのときの空気を思い出すと笑ってしまう部分もあるけど、あれって単なるオカルトじゃなかった気もします。

「未来がどうなるかわかれば安心できる」
「何が起こるか前もってわかっていたい」
そういう、“予測”がもたらす安心感に、たくさんの人が惹かれたんじゃないでしょうか。

でも、結局1999年も何事もなく終わって、2000年が来ちゃいました。
その時、世界はパニックになったかというと、意外にも「なーんだ」で終わった。
むしろ、「未来ってこんなに“わからない”もんなんだ」って、ちょっと肩の力が抜けた感じすらありました。

「わからなさ」を一緒に抱えるという支援

支援も人間関係も、「こうなるはず」を手放して、「どうなるかわからないね」を共有することが、すごく大事なのかもしれません。
相手の未来を“決めてしまう”よりも、「一緒にその未来を見に行こう」と関われる人でいたい。

予測しないって、ある意味すごく勇気のいることだけど、だからこそ「共にいること」が問われる。
それはきっと、“信頼”という関係の土台になると私は思うんです。

この記事を書いたのは

植竹 美保
団子の焼ける公認心理師
こころ整備士(認定専門公認心理師)の植竹美保です。
たまに団子屋になりながら、支援者支援をメインに活動しています。

もう疲れた、先に進めない、進みたくない。
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少しでも皆さんの心持ちが軽くなるようなお手伝いができればと思っています。
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