変えるべきは「考え方」じゃなく、「現場での当たり前」
これまで私は、支援のあり方や「共に生きる社会」についての講義や研修でたくさんの方に聞いていただいたり、これからもまた、このブログでも書いていこうと思っているのですが、、、
でも、あらためて思うこと。
それは、本当に変えていくべきなのは、“考え方そのもの”ではなく、その考え方を「現場の当たり前」にしていくプロセスなんだろうなってこと。

理念や理想を掲げることは、実はそんなに難しくない。
だけど、制度や人間関係、慣習が根づいた現場の中でそれを実践に落とし込むのは、本当に難しい。
変えない方が「楽」だったあの頃の私
施設に勤めていた頃の私は、「こうしたらいいのに」と思うことがいくつもありました。
でも、実際に変えるのはなかなかできなかった。
なぜなら――変えたくても阻止される。
それなら変えないない方がずっと楽だったからです。
たとえモヤモヤしていても、非効率でも、「いつものやり方」は楽できる。
そこには“無言の正解”が染みついていたように思います。
あの夏、私が「悪者」になった話
ある年の夏の行事で、私は熱中症対策として「水を持参した方がいい」と伝えました。
けれど返ってきたのは、「これまでやってこなかったし、大丈夫でしょ」という反応。
私の声は、なかったことにされました。
ところが翌年からは、水を持ってくることが“当たり前”に。
つまり、現場は変化した。
でも――変化のきっかけになった私は、「ただ波風を立てた人」扱いされてしまった。

すごくやる気を削がれた気持ちになりました。
いくら正しくても、その伝え方やタイミング、空気次第で「悪者」になってしまうことがあるんです。
「変化」はする。でも、痛みを伴う
変化は、起こる。
けれど、その過程で傷つく人が出る構造は、今でも変わっていないんじゃないか?
声を上げた人が孤立し、「あの人、面倒なこと言う人だよね」で終わる。
そんな話をよく聞くようになりました。
それでは、どれだけ良い理念があっても、安全な職場環境とは言えません。
だからこそ「外部」という選択肢
そういうとき、外部のファシリテーターが果たせる役割は大きいと感じています。
私のような外の立場なら、しがらみにとらわれずに、あえて“違和感”を声にすることができる。
たとえば、現場の誰かが言ったら角が立つようなことでも、
外部なら「問い」として投げかけられる。
それだけで空気が少し変わることがあるんです。
外部と内部の「共犯関係」が変革をつくる
ただし、外から来た人間だけでは、本当の変化は続きません。
結局は、中にいる人たちが“芽”を育てていくことが必要なんです。
そのために大事なのが、「共犯関係」。

外部が“タネ”をまき、内部が“水”をやる。
それを一緒にコソコソと「花を咲かせようぜ!」って本気で育てていくような関係。
私はこれを“共犯”と呼んでいます。
” 一緒に空気を揺らす ”
そんな小さな連携が、現場の当たり前を変えていく起点になるのではないかと思っています。
対話から始まる、小さな変化の積み重ね
だから私は、現場に入るとき「正しさ」を押しつけるのではなく、
“一緒に考える”関係をつくることを大切にしています。
対話の場をひらいて、まだ言葉になっていない違和感や願いを少しずつすくいあげる。
理念と現場の間に、橋をかけていく。
それが今、私の支援の軸になっています。
変えられなかった私が、今は「共犯者」として関わる
かつて、変えたくても変えられなかった私。
その私が、今は変化のきっかけを届ける人として現場と関わっています。
だからこそ言いたいのです。
声を上げた人が、悪者にならない現場を一緒につくっていきたい。
そのために、あなたの“共犯者”として、これからも寄り添い続けたいと思っています。
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