私はあえて、「障害」という漢字を使い続けています。
それは、私の中で「障害」が、“人の中”ではなく“社会の中”にあるものだと考えているからです。
「障害」は“障害物”のイメージ

「障害」という言葉を見るとき、私の中では“障害物”のイメージが浮かびます。
少し前のブログでその障害物についても書いているので、こちらも良かったら読んでみてください。

障害物としてパッと浮かぶのは、段差や壁、見えにくい表示、伝わらない言葉、理解されない行動…などかと思います。
それは、人によっては越えるのが難しかったり、誰かの手助けが必要だったりする「社会の中にあるハードル」です。
つまり、「障害者」とは“そのハードルによくぶつかっている人”とも言えるのかもしれません。
誰もが「障害」に出会う
たとえば、階段しかない建物に車いすの人が入れないとき。
小さな文字しか書かれていない掲示板が読めないとき。
発達特性のある子が、大勢の前での発表をうまくできないとき。
その“困りごと”は、その人の「能力がない」から起きているわけじゃありません。
社会が“そういう人”の存在を前提にしていないことで生じている、つまり「社会の側にある障害」なんです。
東京大学先端科学技術研究センター、当事者研究の第一人者の熊谷教授は「自立とは依存先がたくさんあることだ」とおっしゃいます。
社会の中の障害物をどう越えるかの選択肢が選べないのが「障害者」であると。
それを聞いた時、とても納得できたことをよく覚えています。
社会モデルという考え方
こうした考え方は、障害の捉え方としてよく知られている「社会モデル(social model of disability)」に通じています。
これは、障害の原因を“個人の機能や特性の不足”とみるのではなく、“社会や環境のつくり方”にあるとする見方です。
つまり「何ができないか」ではなく、「どんな仕組みがそれを難しくしているか」を見ていこうという視点。
この社会モデルの考え方は、ユニバーサルデザインや合理的配慮の重要性にもつながっています。
下の「こころの支援と社会モデル」という本は、前項の熊谷教授も携わっている本で、社会モデルの視点を明確にさせてくれる私のオススメの本です。
「言い換え」より「見え方」に目を向けたい
最近では「知的障害者」という表現を避け、「知的発達症」や「知的機能の特性がある人」といった言い方も広まっています。
たしかに言葉には力があるから、配慮としての言い換えは大切です。
でも、私はあえて「知的障害者」という言葉も使っています。
それは、「その人が障害を持っている」のではなく、「その人にとって障害になっている社会の障壁がある」と言いたいからです。
誰かをラベリングするためではなく、“社会にある困りごと”に目を向け続けるための言葉として、私はこの表現を手放したくないと思っています。
小さな声と、つながる力

そのためには、まず「見えていない障害物」に気づくこと。
そして、誰かと一緒に越える方法を考えたり、
ときには、それをどけるために声をあげることも必要かもしれません。
誰もが、社会の中で障害にぶつかることがあるし、
誰かの障害物をどける側になることもある。
だからこそ、繋がっていくこと。
わからないことは、対話の中で聞き合うこと。
そんな小さな積み重ねが、社会の「当たり前」を少しずつ変えていくんだと思います。
私は「障害者」という言葉が必要なくなるまで、
これからも「障害者」という言葉を使って、
一緒に社会の困りごとに目を向けていきたいと思っています。
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