「会話泥棒」って、どんな問題?

「ねぇ、ちょっと聞いてよ」
「それ、わかる!私もね、こんなことがあってさ……」

——あれ? 私の話、まだ終わってないんだけど。

最近、「会話泥棒」という言葉を耳にすることが増えました。
相手の話に共感したふうを装いながら、いつのまにか話題を自分の方にすり替えてしまう人。
誰でも一度は、「あれ、今話してたの私だよね?」という経験、あるんじゃないでしょうか。

「話してるのに、すぐ遮られる」
「共感してくれるかと思ったら、自分の話にすり替えられてた」
「私の話、最後まで聞いてほしかっただけなのに……」

ネットで「会話泥棒 対処法」なんて検索してたら、ここにたどり着いたという方もいるでしょう。

でも、ちょっとだけ視点を変えてみませんか?

その人は本当に、“あなたの話を奪いたかった”のでしょうか?
もしかしたら、もっと深い心理の中で、そうせざるを得ない状況なのかもしれません。

今日は皆さんが期待しているであろう、“ どうしたら会話泥棒されずに済むか ”という対処法ではありませんが。。。
しかし、多くの人が感じているこの「会話泥棒」の困りごと。
今回は、違う視点から見て、別の営みの大切さを見つめてみたいと思います。

「話すことに必死になる」人の背景にあるもの

私にも、きっと皆さんにも“ 話すことに必死になってしまう ”ときがあると思います。
仕事場で、家族との会話で、自分の話を何度も否定されたり、「そんなの気にしすぎだよ」と流されたりした時。
そんな時の私は、話すこと=自分を守る手段のように感じているんだと思います。
皆さんは話すことに必死になった時、どんな気持ちでいましたか?

誰かと話すとき、遮られないように、「このタイミングで言わなきゃ」「今しかない」と思い込んで、つい人の話をさえぎってしまうような、そんな瞬間です。
あとで「ああ、また遮ってしまったな」と落ち込むことも、私は未だにあります。

でもそんな経験を重ねる中で、「会話泥棒」と言われるような人たちは、実は“話すこと”に飢えているのかもしれないと思うようになりました。

心理学では、自己開示(self-disclosure)という概念があります。
人が自分の考えや感情、経験を他者に語る行為のことで、適切に受け止められると、信頼関係が築かれたり、自己肯定感が高まったりします。
でも、その自己開示が途中で遮られたり、否定されたりすると、人は「もう誰も分かってくれない」と感じて、諦めの気持ちを持つようになります。

しかし、心の奥底では自分のことを分かって欲しい、よく巷で言われる“ 承認欲求 ”というものがウズウズしている。
結果として、「ちゃんと聞いてほしい」という思いが膨らみ、逆に“ 話すことへの執着 ”として“会話泥棒”のような行動に出てしまうことがあるということ。
もっと行けば、見せしめのような、大きな犯罪に発展することだって考えられます。
そんな「分かって欲しいという承認欲求」は、日常にありふれている、とても大きな欲求です。

スピード社会が“聞くこと”を奪っている

私たちは今、情報の流れがとても速い時代に生きています。
SNSや短縮されたニュース、テンポの早い会話。
「短く、わかりやすく」が求められる中で、じっくりと人の話を“最後まで聞く”という体験が、実はとても貴重になってきていると感じます。

人の話は、最初の一言で本質が見えるわけではありません。
話しているうちに、言いたいことが整理されていったり、感情が表れてきたりする。
でも、聞く側が焦って口を挟んだり、次の予定に気を取られたりすると、その深まりは途中で途切れてしまいます。
話し切れていない状態になっている。

そうした“ 聞かれない体験 ”の積み重ねが、会話に対する防衛反応や焦りを生んでしまうのかもしれません。

対話とは、「変化が起きる関係性」

では、どうすれば私たちは「話すこと」「聞くこと」の会話のズレを越えていけるのでしょうか。

私は「対話」が、その鍵になると思っています。

「会話」と「対話」って同じように捉えられがちですが、結構違いがあります。

例えば、
A「私、〇〇のスイーツ食べてきたの」
B「あー、それ私も行った!、△△が美味しいんだよね!」
これは、横取りされてますね。
相手の話を聞いているようで、自分の話をしているのは一方通行の会話です。

では、これが対話だったら。
A「私、〇〇のスイーツ食べてきたの」
B「あー、いいなぁ!、で、何食べてきたの?」
共感しながら、相手の話の続きを聞き切ろうと問いを投げています。
これが相互作用のある対話。

「会話は一方通行でも成立する、対話は相互性が前提」と言えます。
対話とは「話す」「聞く」がどちらも安心して存在できる場なのです。

対話的コミュニケーションは、心理学の分野でも近年注目されています。
たとえば、ナラティヴ・セラピーやオープンダイアローグの実践では、「相手の語りを遮らずに聞き切ること」「答えを急がず、問いを開くこと」が重視されます。
それは、話す人自身が語りながら自分の経験を見つめ直し、聞く人の姿勢がその再構築を支えているという点で、まさに「相互作用的な“変化のプロセス”」です。

対話は「わざわざ」作るもの

忙しい日常の中で、自然に対話が生まれることは減ってきています。
だからこそ、「わざわざ」対話の時間を作ることが、今はとても大事なのだと思います。

対話というのは、決して“わかり合う”ためだけのものじゃありません。
違う意見をそのまま受け取りながら、それでもつながり続けること。

「そんなふうに考えるんだね」
「私はちょっと違うけど、面白いと思う」

そんなふうに、違いを怖がらずにやりとりできる時間です。

カフェで一息つきながら話す時間。
支援の現場で、これからの目標を決める前に、全員で話を聞く時間。
家族で食卓を囲むときに、スマホを置いて顔を向ける時間。

それらはすべて、「話しきる」「聞ききる」という営みを通じて、人と人との関係性を回復させるための、大切な“余白部分”です。

話せなかった人の声に、耳をすませてみる

「会話泥棒だな」と思ったとき、その人の話の奥にある、「話せなかった言葉」「聞いてもらえなかった時間」を想像してみる。
すると、そこに見えてくるのは、ただの“自分勝手な人”ではなく、「ちゃんと対話したいのに、できなかった人」の姿かもしれません。

ちょっと意識してみるだけでいいんです。

  • 相手が話し終わるまで、自分の話はとっておく
  • 「また、ずっと喋ってる…」の前に「そうなんだね、どうだったの?」と聞いてみる
  • 一度相手の立場を想像してみてから、自分の言葉を返す

ほんの少しの違いで、話す空気がふっとやわらかくなるのを感じられます。
私たちが“聞くこと”をもう少し丁寧に行えば、“話すこと”に必死な誰かの安心が、少しずつ回復していくかもしれません。

そしてその時、会話泥棒されてイライラしたり、悲しいという自分自身の心も、静かに一緒に満たされていくのだと思います。

私は阿川さんの話のテンポの良さが好きなのですが、こちらの聞く力は、ベテランインタビュアーの真骨頂を覗かせてもらえる、「なるほど!」と楽しく読める本でした。

この記事を書いたのは

植竹 美保
団子の焼ける公認心理師
こころ整備士(認定専門公認心理師)の植竹美保です。
たまに団子屋になりながら、支援者支援をメインに活動しています。

もう疲れた、先に進めない、進みたくない。
そんな風に思ったら、私と一緒にこころを整備してみませんか?
少しでも皆さんの心持ちが軽くなるようなお手伝いができればと思っています。
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