「嘘ついたら針千本飲ます、指切った!」──
子どもの頃、そんな約束をしたことってありませんでしたか?
もしそれを全員の人が本気で実行していたら、きっと今ごろ人類は滅亡しています。
なぜなら、「嘘をついたことがない人」なんて、ほとんどいないからです。
「嘘をつかれるのは嫌。でも、自分が嘘をついたことがないかといえば、そうじゃない」。
この小さな矛盾、あなたのなかにもありませんか?
子どもの頃は「嘘はダメ」と教えられ、「正直が一番」「嘘は泥棒の始まり」などの言葉で育ってきたはず。
それなのに、大人の私たちは日常の中で、“小さな嘘”をささやかに、あるいは無自覚に使っています。
今日は、そんな「嘘」とどう付き合うかを、少し掘り起こしてみたいと思います。
子どもの嘘は「心の理論」の芽生え

神戸大学の林創氏はインタビューの中で、子どもの嘘の発達には段階があると話しています。
最初に見られるのは、2歳半〜3歳頃に出てくる「罰を避けるための単純な否認」のような嘘から。
例えば、「ご飯だよ、お片づけした?」と聞く母。
そこに、早くご飯が食べたい子どもから「やったよ」と言い張る返事。
だけど、部屋はぐちゃぐちゃのままみたいな。
この段階では、相手の心を操作する意図はまだ弱いのが特徴です。
しかし、4〜5歳頃になった子どもは、相手の「誤った信念」を意図的に作り出すような嘘をつけるようになります。
さっきの「お片づけした?」で考えると、「今からやろうと思ってた」みたいな感じ。
相手が許してくれる、もしくは怒るのをやめてくれるであろうという言葉を、意図的に作り出している状態ですよね。
これは「心の理論」でいうところ、”相手の考えや信念を推測する力” の発達によるものです。
さらに、嘘をつくには「本当のことを言いたい自分」を一瞬抑える抑制力や注意の切り替えなど、それらを実行する機能も欠かせません。
つまり、子どもの嘘は社会性の発達と深く結びついた行為なのです。
こう考えると、子どもの嘘を単なる「悪いこと」と全てを片付けてしまうのは、少しもったいない視点かもしれません。
そこには、他者を理解しはじめた成長のサインが隠れているからです。
大人の嘘は、もっと身近なところに
大人になると、嘘はもっとこなれていて、あちこちに潜んでいます。
たとえば──
- 朝、熱があるふりをして「今日は熱が出て…」とズル休みをする。
- 職場で「ちょっと買い出し行ってきます」と言って、実はコンビニでお茶&おやつを楽しんでから帰る。
- 仕事をろくにしない上司に対して、内心「この人ほんと勘弁して…」と思いながらも、にこやかに「おはようございます」と挨拶する。
これ、どれも私自身がついたことのある嘘です。
皆さんにも身に覚えありませんか?
こんなちょっとした嘘。
“重大な裏切り”ではないけれど、「正直であること」「誠実であること」が美徳とされる社会の中で、自分を守るため、あるいは人間関係をなめらかにするために自然と使っている嘘です。
ある意味で、こうした嘘は日々のストレスや摩擦を回避する“潤滑剤”の役割も果たしています。
なんて言うのは、決して自分がついた嘘を正当化するためじゃないですよ💦
嘘をめぐる「善意」と「不誠実」

嘘を「良い/悪い」で単純に裁くのは簡単です。
でも、嘘の背景にある「視点」に目を向けると、見える世界がまた少し変わります。
M・スコット・ペック(1995)の著書『平気でうそをつく人たち』では、嘘は大きく二つに分けられています。
一つは「他者を守るための嘘(他者視点)」、もう一つは「自分を守るための嘘(自己視点)」です。
多くの嘘には、少なくとも次のどちらか(あるいは両方)が含まれています。
- 相手を傷つけたくない
- 期待を裏切りたくない
- 関係を壊したくない
- 安心して欲しい、など
- 自分を守りたい
- 楽をしたい
- 責任を回避したい
- 恥をかきたくない、など
前者は、相手の感情を傷つけないように配慮したり、場を和ませたりするために用いられます。
例えば「体調大丈夫?」と聞かれて、本当はしんどいのに「うん、大丈夫」と答えるような場面です。
状況や文脈によっては、白い嘘と言われる他者視点での嘘が信頼関係をむしろ支えることもあります。
たとえば、病床の人にあえて深刻な事実を伝えないといったケースも一つですよね。
一方、後者は、責任回避や自己保身のためにつかれる嘘で、関係性に長期的な影響を及ぼしやすいとされています。
職場や家庭での関係性が失われていくのは、ここから始まりそうですね。
もちろん、すべての嘘が一刀両断に「他者・自己」ときっちり分けられるわけではありません。

たとえば恋愛シーンでパートナーから「男友達と飲んでた」と嘘をつかれた時。
「あなたを不安にさせたくない」という他者視点の嘘かもしれないし、「責められたくない」「浮気がバレたくない」という自己視点の嘘かもしれません。
瞬間的に怒りが沸く状況になりそうですが、重要なのは、「なぜその嘘をついたのか」という背景と、自身が「その嘘をどう受け止めるか」という相互の関係性です。
この“視点”の違いを感じ取れたとき、嘘は単なる裏切りではなく、相手の本音や思惑を映す鏡になることがあります。
そして、怖いけれど、その鏡に映る自分を見ることにもなる。
理解と許容は全く違う
嘘の背景を理解することは、必ずしもその嘘を「許す」ことと同義ではありません。
理解はまず、自分の感情を整理するための土台になります。
Boon & Holmes(1991)は、信頼を「リスクを伴う状況において、他者の動機について確信のある肯定的な期待を持つ状態」と定義しています。
もう少し噛み砕くと、たとえば友人に「絶対に内緒だよ」と大事な話を打ち明けるとき、私たちは「この人は裏切らない」と相手の“善意”に賭けているわけです。
だからもし、その話が翌日には別の人に伝わっていたら──
裏切られたという怒りや失望、不安が一気に押し寄せますよね。
信じていたのに、あれは嘘だったの?って。
嘘をつかれると、この「相手の動機への肯定的な期待」が揺らぎます。
上記の場合だと、「この人は裏切らない」という信頼への期待です。
しかし、それが裏切られると相手に対する肯定感が揺らぎます。
その揺らぎは感情を大きく波立たせ、信頼関係の基盤を動かしてしまいます。
だからこそ、「自分がどの嘘を“仕方ない”と思えるか」「どの嘘は“許せない”と感じるか」を知ることは、自分の境界線を明確にするうえでとても重要なのです。
嘘は排除するものではなく、見極めるもの

嘘を完全に排除することは現実的ではありません。
むしろ、関係を壊す嘘と、関係を保ち摩擦を和らげる嘘を見極める視点が大切です。
家庭や職場や学校でも、「正直であること」だけが誠実さではなく、相手を思いやるような“空気を読む白い嘘”が円滑な関係を作ることもあります。
嘘は壊し屋でもあり、潤滑油でもある──
この二面性を意識できると、人との関係の見え方が少し変わってくるかもしれません。
あなた自身は“嘘”をどう捉える?

ここで、少しご自身に問いかけてみてください。
- どんな嘘なら「仕方ない」と思えるか?
- どんな嘘には「これは許せない」と線を引きたくなるのか?
- それは、相手のどんな視点から出た嘘なのか?
- 自分がついてきた嘘には、どんな視点があったのか?
嘘と向き合うことは、自分が守りたい価値や、他者への期待、自分自身の境界を知ることにつながっていきます。
嘘の話は重たく聞こえるかもしれませんが、その向こうには、人との関係や自分自身の本心、生きるうえで大事にしたいことを見つめ直すチャンスが隠れています。
あなたは、どんな嘘なら笑って流せますか?
どんな嘘には、線を引きたいですか?
その答えが、あなたの“誠実さ”の輪郭を描いていくのかもしれません。
おすすめの本
この本を読み終えた後、私は日常の些細なやり取りや、自分自身の“つい嘘をついてしまった瞬間”を振り返る時間を持てました。
相手のための嘘か、自分のための嘘か、どちらに重きがあるのか。
本の中にあるそうした問いを通じて、自身の持つ信頼や誠実さの輪郭を、少しだけ丁寧に見ることができた気がしました。











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