
「どうしたら、部下ともっとちゃんとつながれるんだろう」
そんな上司の方の相談を受けました。
その方は決して厳しい上司ではなく、むしろ部下との関係を大切にしたいと願っている人でした。
でも、いざ話しかけると、どこか壁を感じる。
最後まで聴き切りたいから「また話をしよう」と言っても次に繋がらない。
部下との“ 距離が縮まらない感じ ”に、もどかしさを抱えているようでした。
私は少し考えて、こんなふうに言いました。
「“今度また話そう”より、“今度また話を聞かせて”って言ってみるのはどうですか?」
このたった一言の違い。
でも、その一言の中に「相手の思いを聴こうとする姿勢」が滲み出ます。
その感覚に気づいたとき、その方の表情がふっと柔らかくなったのを覚えています。
“聞いてもらえる”と感じるだけで、人の心には小さな安全地帯が生まれる。
それが、対話のはじまりなんです。
対話は「意見交換」ではなく、「自分を見つめる時間」

「対話」という言葉には、どこか“軽い”印象がつきまといます。
企業へ研修提案をするときや、初回の研修などで「対話をやります」と話すと感じるんです。
「あ、対話ね」と軽く受け流されている感じ。
この対話というものを説明する難しさを痛感する瞬間です。
多くの人は「話す・聞くこと」は日常に溶け込んでいます。
なのでそれは “もうすでにできていること”と思っているからかもしれません。
でも、実際に対話研修の場に入ると、多くの人がこんな感覚を味わうようです。
「こんなふうに聞いてもらったこと、今まであったかな」
対話は、単なる意見交換や情報共有の場ではありません。
自分の気持ちや思いを言葉にしながら、自分自身を見つめ直す時間です。
そして、相手の語りを聴くことで、自分の視点が少しずつ変化していく。
そんな静かで豊かなプロセスがそこにはあります。
「共感」ではなく「共鳴」へ
精神科医・森川すいめいさんは、あるツイートでこう書いていました。
「対話は共感しないくらいの共鳴をしている(チューニングしている)」
森川すいめい(2025.10)Twitter(X)投稿
この言葉を読んだとき、私は深くうなずき、ちょっと感動さえ味わっていました。
よく研修でも「聴き切ることと傾聴は何が違うんですか?」と聞かれます。
傾聴は相手の感情に寄り添い、理解しようとする姿勢が中心にあります。
一方で、対話の場での「聴き切る」は、相手の語りに寄り添いながらも、自分自身の心をチューニングしていくような感覚です。

はっきり言えば、理解も共感もしていなくてもいいんです。
「あ、この人はこんな思いを感じて、こんな気持ちなんだ」と、
相手の言葉によって自分の心に響きを感じている状態。
共感という“一方向”ではなく、共鳴という“双方向”の響き合い。
正解も不正解もなく、誰もそれをジャッジしない。
そこには、互いの声が場の中で静かに揺れ合うような時間が生まれます。
聴き切られると、人は自然と語り始める
対話の場では、相手の話を「途中で評価しない」「方向づけない」「遮らない」という聴き方を大切にします。
いざ対話の場に入りると、最初は緊張していた人も、話すのが苦手なんですと言っていた人も、5分、10分と聴き切られるうちに、表情が少しずつ変わっていきます。
自分の内側の声に耳を澄ませながら、言葉を探すように語り始める。
その姿に、周囲もまた耳を傾ける。
そうやって少しずつ、場全体が“共鳴”していく。
それはとても心地よく、自分がそこに在ると実感できるはずです。
対話の場を、もっと身近なものに

私は、研修や地域の実践を通して、何度もこの瞬間を見てきました。
だからこそ、「対話」という言葉が軽く受け取られてしまうのは、少しもったいないと感じています。
対話は、特別なスキルを持った人だけができるものではありません。
誰にでも開かれていて、誰の中にもそのスキルを発揮する可能性が眠っています。
ただ、その入り口に立つためには、「話を聞いてもらえる」という感覚が必要です。
自分の話を「聴き切ってもらえる」安全な場でなければなりません。
でも、その最初の一歩は、意外なほど小さな行動から始まるのかもしれません。
おわりに

「今度また話しを聞かせて」──
この一言が、関係性の空気をやわらげ、対話の扉をそっと開くことがあります。
聴き切られる体験は、人の心に深く残るものです。
そこから生まれる共鳴は、言葉以上の力を持って、関係を少しずつ変えていくと思います。
仲間と開催している対話の会。
体験してみたい、興味があるという方。
ぜひお話を聞かせてください。












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