私たちは「種」を磨きすぎてはいないか

「もっと自己肯定感を高めなきゃ」
「もっと折れない心(レジリエンス)を持たなきゃ」
今の社会には、「自己肯定感」「セルフケア」「心理的安全性」など、自分をより良く整えるための言葉が溢れています。
そんなふうに、自分を鼓舞することに疲れてしまっていませんか?
どれも大切な概念ですが、いつの間にかそれらは「個人のスキル」や「努力目標」にすり替わってしまっているように感じます。
うまく自分を愛せないのは、自分の努力が足りないから。
すぐに心が折れてしまうのは、自分のメンタルが弱いから。
……本当に、そうでしょうか?

私たちはまるで、一粒の「種」として、誰よりも早く芽を出し、立派な花を咲かせることを競わされているようです。
芽が出なければ「努力が足りない」と自分を研磨し、花が萎れれば「自己管理ができていない」と自分を責める。
でも、少し立ち止まって考えてみてほしいのです。
どれほど生命力に溢れた、ピカピカに磨き上げられた「種」であったとしても、もしその足元の土壌がカチカチに凍りついていたら、一体どうなるでしょうか。
どんなに願っても、どんなに自分を磨いても、凍った土壌を突き破って芽を出すことはできません。
沈黙を守り、ただ土の中で耐え続けるしかない。
それは種が「不真面目」だからでも、「能力が低い」からでもありません。
ただ、そこが「芽吹くことのできない場所」だった。
それだけのことなのです。
「個人の問題」という錯覚を解く
心理学の世界には、ドイツ出身の心理学者クルト・レヴィンが残した、ある大切な指針があります。

人の行動(B: Behavior)は、その人の特性(P: Person)と、その人が置かれた環境(E: Environment)の相互作用によって決まる、という考え方です。
私たちはつい、誰かの行動や自分の状態(B)を見たとき、その原因を本人の性格や資質(P)だけに求めてしまいがちです。
「あの人はやる気がない(P)」
「私はメンタルが弱い(P)」というように。
しかし、この方程式が示しているのは、「どんなに素晴らしい資質(P)を持っていても、環境(E)が整わなければ、望ましい行動(B)は生まれない」という冷徹な、しかし救いに満ちた事実です。
よく言われる「自己肯定感」は個人だけの問題ではありません。
また、「レジリエンス」という言葉も、個人の特性を表す言葉ではなくそのプロセスであり、今の世の中では個人の資質(P)として扱われすぎています。
しかし本来、それらは他者との温かな関わりや、安心して失敗できる構造という「環境(E)」の中で、自然と育まれていくものです。
濁った水の中で懸命に泳いで、汚れた体を必死に洗っているようだと思うのです。
私たちは「自分(個人)」という種だけを一生懸命に磨き、本来目を向けるべき「土壌(構造)」の冷たさを忘れてしまっているのかもしれません。
「構造」を整える、という静かな革命

私は20年の対人支援の現場で、多くの「芽吹くことが難しい種」に出会ってきました。
そこで学んだのは、支援の本質とは「種を教育し磨くこと」ではなく、「土壌の温度を、ほんの少し上げること」だということです。
- 必要なことが、必要な人にうまく届いていないことはないか
- 気づけば、いつも同じ人ばかりが頑張り続けていないか
- 正直な気持ちを言うと、少し不利になるような空気はないか
こうした「土壌の凍結」を放置したまま、個人に「もっと頑張れ」と種磨きを強いるのは、あまりにも残酷です。
どんな種であっても懸命に生きているのです。
私たちが取り組むべきは、誰かを評価し、選別することではありません。
対話という光を当て、情報の流れという水を循環させ、凍りついた構造を少しずつ溶かしていくこと。
土壌が柔らかく、温かくなれば、どんな種でも、教えられなくても自らの力で根を張り、それぞれのスピードで芽を出し始めます。
ともに在り、土を耕す

「自分を磨かなければ」という焦りは、一度横に置いておきませんか。
今、あなたが芽を出せずにいるのは、あなたの種の殻が分厚いからではなく、ただ土壌が凍っているだけかもしれません。
一人で土を耕すのは、とても勇気がいることです。
だからこそ、私たちはともに在り、ともに整える。
家族の中に、仲間の中に、地域の中に、組織の中に、安心して対話できる土台を。
凍った土壌に、小さな亀裂と温かな隙間が生まれるような対話があったらいいと思うのです。
柔らかな土壌から始まる物語の方がワクワクします。
どんな葉が伸び、どんな色の花が咲くのでしょうか。

あなたは今、どんな温度の土壌に立っていますか?
その場所は、あなたが深呼吸できる場所でしょうか。









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