レジの前で、私たちは何を交換しているのか
コンビニやスーパーのレジで、ふと心がざわつく瞬間がありまんか?
例えば、 店員さんに対して、少し横柄な態度を取るお客さんの姿を目にしたとき。

「お金を払っているのだから、自分の方が立場が上だ!」
非常にザワザワする瞬間だと思います。
かつて「お客様は神様です」という言葉がありましたが、もしそんな風に考えているのだとしたら、そこにはある大切な視点が抜け落ちているのかもしれません。
本来、買い物をするとき、私たちは店員さんにも「助けて」もらっているはずなのです。
並んでいる野菜を育てた生産者さんがいて、それを運んだ人がいて、お店に並べ、レジで精算してくれる店員さんがいる。
自分一人では決して完結できないプロセスを、多くの方々の力を借りて、ようやく一つの品物を手にしています。
店員さんは、お客さんにはできない(あるいは、今はしない)役割をまとめて代行して私たちを「助けて」いる状態。
その対価として、お客からお金を受け取り、お給料をもらっている。
お互いに自分のリソース(資源)を出し合い、ニーズを補い合っている状態といえます。
そこにあるのは立場の上下ではなく、役割を交換し合う「水平な関係」ではないでしょうか。
シーソーは、揺れているから心地よい

人との関係は、本来シーソーのようなものではないかと思うのです。
一方が地面を蹴って高く上がれば、もう一方はゆっくりと沈み込む。
ある瞬間には「助ける側」と「助けられる側」に分かれているように見えますが、それは固定されたものではありません。
明日は逆かもしれないし、一分後にはバランスが変わっているかもしれない。
「ギッタンバッコン」と揺れ動きながらも、足元にある地平は同じ。
この「揺らぎ」そのものを楽しめることこそが、健全な関係の証だと思うのです。
私が「支援」という言葉にどこか手触りの悪さを感じるのは、このシーソーがどちらかに傾いたまま、固まってしまうような感覚があるからです。
「助ける側」が常に上にいて、「助けられる側」が常に下にいる。
そんな垂直な重力が働いた瞬間、私たちは「一人の人間」として出会うことが難しくなります。
支援する側には「導いてあげなければ」という傲慢さが。
される側には「自分では何もできない」という依存が、知らず知らずのうちに生まれてしまう。
だからこそ私は、一方的な「支援」ではなく、共に揺れるシーソーの隣で「一緒に考える」という在り方を選びたいのです。
専門性という「ライト」を手に、共に探究する

「一緒に考える」と言っても、それはただ漫然と隣に座っているだけではありません。
専門家としての私の役割は、あなたが今見ている景色に対して、別の角度から「光」を当てるための道具になることだと考えています。
以前、家族の言動に振り回され、ついイライラしてしまう自分を「消すべき悪いもの」だと思い込み、責め続けていた方がいました。
私はその方の話を聴きながら、その感情の裏側にある「本当の願い」を探していました。
「それは、あなたが家族を愛しているからこそ、生まれる感情なんですね。大切にしたいと思っているからこそ、そのズレが苦しい。それって、実はとても深い愛情の現れなんじゃないでしょうか?」
その言葉を聞いた瞬間、その方の顔つきがふっと明るくなりました。
「悪いことばかりじゃないのかもしれないですね。」
そうポツリと話されたのがとても印象的でした。
私は何か答えを与えたわけではありません。
「イライラ=悪」という固定された場所に、専門的な視点というライトを当てて、別の意味を見つけ出しただけ。
光の角度が少し変わるだけで、昨日までの苦しみが、今日からの納得感に変わるのかもしれません。
ナラティヴ・セラピーでは、こうした在り方を「共同研究者」と呼びます。
あなたが自分の人生というフィールドの専門家であり、私はそれを一緒に研究するパートナー。
そこには役割の違いはあっても、立場の上下はありません。
答えを急がず、「納得感」を待つ
私のスタイルの根貫の一つに、「未来解決志向ブリーフセラピー(SFBT)」という考え方があります。
特に尊敬する黒沢幸子先生の、相手の力をどこまでも信じ抜く眼差しには、私自身、大きな影響を受けています。
【引用】 「解決志向のアプローチでは、クライエントは自分の人生の『エキスパート(専門家)』であると見なされる。セラピストは答えを教える人ではなく、クライエントがすでに持っている解決の糸口を一緒に見つけ出し、それを増幅させていく共同作業者なのである。」 (出典:森俊夫・黒沢幸子 著『解決志向ブリーフセラピー』金剛出版)
「助けて」と言われたとき、私たちはつい「正しい答え」を差し出さなければと焦ってしまいます。
でも、その焦りが、相手の「自分で見つける力」を奪ってしまうこともあります。
もちろん、命に関わるような緊急性が高いときは、迷わず「今は病院へ行きましょう」「役所の相談窓口へ繋ぎましょう」とはっきり伝えます。
それは、共に研究を続けるための「安全地帯」を確保する、私なりの責任の取り方です。
安全が確保されたなら、あとはゆっくりと椅子を並べて、一緒に景色が変わるのを待つ。
そんな「問い」の余白を大切にしたいのです。
おわりに

あなたは今、誰との間で、どんなシーソーに揺られていますか?
「助けてもらっている」という事実を見過ごして、知らず知らずのうちに誰かを見下してはいないでしょうか。
あるいは「助けなきゃ」という重圧で、相手の力を信じることを忘れてはいませんか。
いつでも水平でなくていい。
揺れながら、ズレながら。 その揺らぎの中に、新しい納得感を見つけていく。
今日、あなたの隣にいる誰かと、ただ「共に揺れる」時間がありますように。










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