「超物理」の夜に
先日の対話の場「IRORI会」でのこと。
いつも通り囲炉裏を囲むような穏やかな空気の中で、ある参加者の方が「超物理」の話を切り出されました。
「超物理」という学術的な専門分野はないそうなのですが、この世界には、今の科学や理屈ではどうしても説明しきれない、不思議な謎が隠れているという意味で使われたと私は解釈していました。
そして、その言葉に触れたとき、私の心には一つのリンゴが浮かんでいました。

私が研修や講義でよくお話しする、ある思考実験があります。
「目の前にあるこのリンゴ、皆さんは何色に見えますか?」
そう問いかけると、当然のように「赤色です」という答えが返ってきます。
でも、少しだけ考えてみてほしいのです。
「逆転スペクトル」という迷宮
あなたが今見ているこの鮮やかな「赤色」という質感。
実は、あなた以外の人の目には、あなたが思う「青色」が浮かんでいるかもしれません。
だって、隣の人の頭の中を覗いてみるなんてできないのですから。
その人は、生まれた時からその色を「赤」と呼ぶように教わってきたから、お互いに「赤いね」と言い合うことで、そのズレに一生気づかないまま過ごしている……かもしれないのです。
そんなふうに考えると、私たちの言葉やイメージはあくまで自分だけのものであると感じませんか?

哲学者の野矢茂樹氏は、こうした「他人の心の中の感じ方(クオリア)」には、たとえ科学がどれほど進歩しても、誰も直接触れることはできないという難問を指摘しています。
私たちは、同じ「赤」という言葉を使いながら、実はそれぞれに全く違う世界を生きている可能性がある。
この「根本的なわかり合えなさ」に気づいたとき、一瞬、足元が崩れるような心細さを感じるかもしれません。
でも、本当にそれは悲しいことなのでしょうか。
「分かったつもり」という壁を壊す

支援の現場や、大切な人との関係の中で、私たちはつい「相手のことは分かっている」という前提に立ってしまいます。
「あの人はこういう性格だから」
「きっとこう思っているはずだ」
そうやって相手を自分の知っている枠組みに当てはめることは、一見すると理解しているように見えて、実は相手の本当の姿を塗りつぶしていることでもあるのです。
「ナラティヴとは何か」という資料の中で、梓川一氏は「人は物語(ナラティヴ)をつくりながら生きている」と述べています。
その物語は、誰にも奪えない、その人だけの唯一無二のものです。
他者が安易に「分かる」と口にすることは、その人の持つ大切な聖域に土足で踏み込むことになりかねません。
「分からない」という壁に突き当たったとき、ようやく私たちは、自分の思い込みを手放すことができます。
「不確実性」の中に留まる贅沢
フィンランドで生まれた対話の実践「オープンダイアローグ」では、「不確実性への耐性」という言葉をとても大切にします。
白黒はっきりさせたり、すぐに解決策を出したり、相手を理解可能な形にまとめ上げたりしたい。
そんな「答え」を急ぐ衝動をぐっとこらえて、「分からない」という宙吊りの状態のまま、みんなでそこに留まり続ける。
それが、対話におけるもっとも豊かで、かつ勇気のいる姿勢なのです。
先日のIRORI会で、私たちが「超物理」や「解けない謎」を面白がることができたのは、私たちが「分からない」ことを欠損ではなく、一つの「豊かさ」として受け入れられたからかもしれません。
問いかけとしての対話

「私とあなたの見ている赤は、違うかもしれない」
その前提に立つとき、相手に対する純粋な好奇心が生まれます。
「あなたの見ている世界は、どんな色が見えているの?」
「その景色は、あなたにどんなことを語りかけている?」
相手を「解明すべき対象」ではなく、自分とは異なる宇宙を持った1人として尊重すること。
相手のクオリア(質感)に触れることはできなくても、その横に並んで、「分からないね」と笑い合いながら、新しい物語を共に編み直していくこと。
それこそが、私が今までの地層の中で学び、今も大切にしている支援の、そして対話の形です。
おわりに
愛犬の篤(あつ)やルーと過ごしているときも、私は時々思います。
この子たちの見ている景色は、私のものとはきっと全く違うけれど、だからこそ、その小さな温もりを不思議に思い、慈しむことができるのだと。
皆さんの周りにある「リンゴ」。
あの人の頭の中では何色に見えているのでしょうか?
正解のない世界を歩くのは、少し不安で、だけど、とても自由なことです。
次回のIRORI会でも、その「解けない謎」を、揺れる炎と心と共にゆっくりと味わいましょう。
あなたの「赤」の話を、ぜひ聞かせてください。

【引用・参考文献】
- 野矢茂樹(2016)『心という難問 ―― 実在・他者・感覚』講談社.
- ヤーコ・セイックラ、トム・エーリック・アーンキル(著)高木俊介、岡田愛(訳)(2016)『オープンダイアローグ』日本評論社.
- 梓川一「『ナラティヴとは何か』の再考」










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