団子のあんこが「ふっくら」美味しい理由― 100年の羽釜が教えてくれること

「ここのあんこ、本当に美味しいね。どうしてこんなに柔らかいの?」

イベントで団子屋を開いていると、よくそんな風に声をかけていただきます。
特別な隠し味があるわけではありません。
ただ、私の手元には100年以上も前から受け継がれてきた、大きな羽釜があります。

100年の熱が、満遍なく巡るということ

この羽釜を火にかけると、不思議なことが起こります。
あずきたちが釜の中で、まるで意志を持っているかのように勝手に対流を始めるのです。
底から上へ、右から左へ。
厚みのある釜の形が熱を自在に操り、あずき一粒一粒に満遍なく、じっくりと火を通していきます。

あんこを炊く時間は、決して効率的ではありません。
あずきの様子を伺いながら、じっくりと熱が巡るのを待つ。
火の対流に身を任せ、豆がふっくらと開いていくのを待つ。

この「ままならなさ」や、火に揺らぐあずきの姿を眺めていたとき、ふと、ある方の言葉がすとんと胸に落ちてきました。
以前、羽釜を譲ってくださった方から届いた、生物学者・最首悟さんのコラムの中にあった言葉です。

「雑然」という救い、そして「盾」になること

UnsplashBogdan Kuprietsが撮影した写真

最首さんは、澄んだものも濁ったものも丸ごと受け入れて、心を開いて歩んでいく姿勢を「雑然(ざつぜん)に生きる」と表現されています

あずきが対流の中で形を崩しながらも、ふっくらと甘みを蓄えていく様子は、まさにこの「雑然とした豊かさ」そのものに思えます。

効率を優先して最短距離で仕上げるのではなく、対流という「ゆらぎ」に身を任せることで生まれる柔らかさ。
そこに、100年という時間を超えてバトンを繋いできた人たちの物語が、熱とともに溶け込んでいる。
そんな気がするのです。

最首さんはまた、人間とは「じんかん」、つまり「人と人の間、関係」を指すのだとも説いています 。一人の人間として完結するのではなく、相手がいて初めて自分が成り立つという考え方です。

ここで提示される「あなた(貴方)」という言葉の解釈に、私はハッとさせられました。

最首さんは、相手を「立てる」という行為は、実は相手を「盾(たて)にする」ことでもあるのではないか、と問いかけます 。
相手を表に立てて、自分はその後ろに隠れ、頼る。
それは一見すると利己的に見えますが、実は相手にとっても私は「頼るべき人(あなた)」であり、お互いが盾になり合っているのです 。

UnsplashRay Hennessyが撮影した写真

お互いが相手を盾にし合い、頼り、頼られる。
羽釜の中で熱が対流し、あずき同士が触れ合いながら柔らかくなっていくように、私たちもまた、誰かを盾にし、誰かの盾になることで、ようやく一人の「人間(じんかん)」としてふっくらと存在できるのではないでしょうか。

最近、誰かをこっそり「盾」にして頼ったり、あるいは誰かの「盾」になってその人の存在を支えたりしたことはありませんか?

整理整頓された社会の隙間で

UnsplashVarun Gabaが撮影した写真

今の私たちの社会は、あまりに「整理整頓」されすぎてはいないでしょうか。

効率、生産性、自己責任。
そして「障害者」と「健常者」という、あまりに明快すぎる境界線。

私たちは、複雑で矛盾に満ちた「人間」という存在を、分かりやすいラベルで分類し、綺麗に整頓された「箱」に収めることで、安心しようとしているのかもしれません。

かつて津久井やまゆり園で起きた悲劇の根底には、「意思疎通ができない、生産性のない命は価値がない」という、極端に「整理」された思想がありました。
社会の役に立つか立たないか。
そんな冷徹な基準で命を仕分けしようとする力に対して、最首さんは「ただ、ともに居る」ことの尊さを、ダウン症の三女・星子さんとの暮らしを通じて静かに説いています 。

将来何かを成し遂げるための準備期間ではなく、今この瞬間に心が満ち足りるような「和やかさ」 。

それは、効率を優先して切り捨ててしまった「雑然」とした隙間にこそ、ひっそりと宿っているものなのです。

物語が重なり合う、その瞬間の喜び

私は20年、障害者支援の現場に身を置いてきました。
そこで大切にしてきたのは、対話を通じてその人の「言葉」が変化する瞬間に立ち会うことでした。

心理学の世界には「ナラティヴ(物語)」という考え方があります。
私たちは自分の人生を一つの物語として生きていますが、社会から貼られた「障害者」というラベルは、その物語を「欠けている存在」という狭い場所に閉じ込めてしまうことがあります。

現場で支援に携わる私たちが、効率や支援計画という「整理整頓」を一度脇に置き、目の前の人と「雑然」とした関係の中に身を浸すとき。
100年前の羽釜がそうであるように、その人の背景にある膨大な物語に耳を澄ませるとき。

そこにはもう、「支援する側」と「される側」という仕切りはありません。
お互いに盾になり合い、物語が重なり合う。
その瞬間の喜びを分かち合う、一人の人間同士がいるだけです。

「この人は、社会にとって何ができるか?」という問いを、「私たちは、ただ共に居ることで、どんな和やかさを紡げるだろうか?」という問いに、そっと置き換えてみる。
その小さな揺らぎこそが、いつか「障害」という言葉そのものを、社会から優しく溶かしていくのだと信じています。

皆さんは今日、誰かとどんな物語を重ねましたか?
そこには、どんな優しい「柔らかさ」がありましたか?

【参考文献・引用】

  • 最首悟「頼り頼られるは一つのこと」『ハルメク』2021年11月号(第185号)
  • 野口裕二『物語としてのケア:ナラティヴ・アプローチの世界へ』医学書院、2002年

最後に ―「物語」を分かち合う場所

この100年の羽釜で炊いたあんこ、実はお団子乗せて、ぜんざいにしてとイベントなどでお出ししています 。
2月28日、3月1日の土日に行われる「いぬのおまつりin草加」にもYouI=EQUITYの仲間とお店出しです。

羽釜の中で熱が満遍なく巡り、ふっくらと仕上がったあんこを頬張るとき。
そこには、100年前から続く時間と、今この瞬間の出会いが静かに重なり合っています。

難しい理屈やラベルはいったん脇に置いて。
ただ「美味しいね」と笑い合い、お互いの物語がそっと触れ合うような「雑然」とした時間を、皆さんと一緒に過ごせたら嬉しいです。

この記事を書いたのは

植竹 美保
団子の焼ける公認心理師
こころ整備士(認定専門公認心理師)の植竹美保です。
たまに団子屋になりながら、支援者支援をメインに活動しています。

もう疲れた、先に進めない、進みたくない。
そんな風に思ったら、私と一緒にこころを整備してみませんか?
少しでも皆さんの心持ちが軽くなるようなお手伝いができればと思っています。
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