「ここのあんこ、本当に美味しいね。どうしてこんなに柔らかいの?」
イベントで団子屋を開いていると、よくそんな風に声をかけていただきます。
特別な隠し味があるわけではありません。
ただ、私の手元には100年以上も前から受け継がれてきた、大きな羽釜があります。
100年の熱が、満遍なく巡るということ

この羽釜を火にかけると、不思議なことが起こります。
あずきたちが釜の中で、まるで意志を持っているかのように勝手に対流を始めるのです。
底から上へ、右から左へ。
厚みのある釜の形が熱を自在に操り、あずき一粒一粒に満遍なく、じっくりと火を通していきます。
あんこを炊く時間は、決して効率的ではありません。
あずきの様子を伺いながら、じっくりと熱が巡るのを待つ。
火の対流に身を任せ、豆がふっくらと開いていくのを待つ。
この「ままならなさ」や、火に揺らぐあずきの姿を眺めていたとき、ふと、ある方の言葉がすとんと胸に落ちてきました。
以前、羽釜を譲ってくださった方から届いた、生物学者・最首悟さんのコラムの中にあった言葉です。
「雑然」という救い、そして「盾」になること

最首さんは、澄んだものも濁ったものも丸ごと受け入れて、心を開いて歩んでいく姿勢を「雑然(ざつぜん)に生きる」と表現されています 。
あずきが対流の中で形を崩しながらも、ふっくらと甘みを蓄えていく様子は、まさにこの「雑然とした豊かさ」そのものに思えます。
効率を優先して最短距離で仕上げるのではなく、対流という「ゆらぎ」に身を任せることで生まれる柔らかさ。
そこに、100年という時間を超えてバトンを繋いできた人たちの物語が、熱とともに溶け込んでいる。
そんな気がするのです。
最首さんはまた、人間とは「じんかん」、つまり「人と人の間、関係」を指すのだとも説いています 。一人の人間として完結するのではなく、相手がいて初めて自分が成り立つという考え方です。
ここで提示される「あなた(貴方)」という言葉の解釈に、私はハッとさせられました。
最首さんは、相手を「立てる」という行為は、実は相手を「盾(たて)にする」ことでもあるのではないか、と問いかけます 。
相手を表に立てて、自分はその後ろに隠れ、頼る。
それは一見すると利己的に見えますが、実は相手にとっても私は「頼るべき人(あなた)」であり、お互いが盾になり合っているのです 。

お互いが相手を盾にし合い、頼り、頼られる。
羽釜の中で熱が対流し、あずき同士が触れ合いながら柔らかくなっていくように、私たちもまた、誰かを盾にし、誰かの盾になることで、ようやく一人の「人間(じんかん)」としてふっくらと存在できるのではないでしょうか。
最近、誰かをこっそり「盾」にして頼ったり、あるいは誰かの「盾」になってその人の存在を支えたりしたことはありませんか?
整理整頓された社会の隙間で

今の私たちの社会は、あまりに「整理整頓」されすぎてはいないでしょうか。
効率、生産性、自己責任。
そして「障害者」と「健常者」という、あまりに明快すぎる境界線。
私たちは、複雑で矛盾に満ちた「人間」という存在を、分かりやすいラベルで分類し、綺麗に整頓された「箱」に収めることで、安心しようとしているのかもしれません。
かつて津久井やまゆり園で起きた悲劇の根底には、「意思疎通ができない、生産性のない命は価値がない」という、極端に「整理」された思想がありました。
社会の役に立つか立たないか。
そんな冷徹な基準で命を仕分けしようとする力に対して、最首さんは「ただ、ともに居る」ことの尊さを、ダウン症の三女・星子さんとの暮らしを通じて静かに説いています 。
将来何かを成し遂げるための準備期間ではなく、今この瞬間に心が満ち足りるような「和やかさ」 。
それは、効率を優先して切り捨ててしまった「雑然」とした隙間にこそ、ひっそりと宿っているものなのです。
物語が重なり合う、その瞬間の喜び
私は20年、障害者支援の現場に身を置いてきました。
そこで大切にしてきたのは、対話を通じてその人の「言葉」が変化する瞬間に立ち会うことでした。
心理学の世界には「ナラティヴ(物語)」という考え方があります。
私たちは自分の人生を一つの物語として生きていますが、社会から貼られた「障害者」というラベルは、その物語を「欠けている存在」という狭い場所に閉じ込めてしまうことがあります。
現場で支援に携わる私たちが、効率や支援計画という「整理整頓」を一度脇に置き、目の前の人と「雑然」とした関係の中に身を浸すとき。
100年前の羽釜がそうであるように、その人の背景にある膨大な物語に耳を澄ませるとき。
そこにはもう、「支援する側」と「される側」という仕切りはありません。
お互いに盾になり合い、物語が重なり合う。
その瞬間の喜びを分かち合う、一人の人間同士がいるだけです。
「この人は、社会にとって何ができるか?」という問いを、「私たちは、ただ共に居ることで、どんな和やかさを紡げるだろうか?」という問いに、そっと置き換えてみる。
その小さな揺らぎこそが、いつか「障害」という言葉そのものを、社会から優しく溶かしていくのだと信じています。
皆さんは今日、誰かとどんな物語を重ねましたか?
そこには、どんな優しい「柔らかさ」がありましたか?
【参考文献・引用】
- 最首悟「頼り頼られるは一つのこと」『ハルメク』2021年11月号(第185号)
- 野口裕二『物語としてのケア:ナラティヴ・アプローチの世界へ』医学書院、2002年
最後に ―「物語」を分かち合う場所
この100年の羽釜で炊いたあんこ、実はお団子乗せて、ぜんざいにしてとイベントなどでお出ししています 。
2月28日、3月1日の土日に行われる「いぬのおまつりin草加」にもYouI=EQUITYの仲間とお店出しです。



羽釜の中で熱が満遍なく巡り、ふっくらと仕上がったあんこを頬張るとき。
そこには、100年前から続く時間と、今この瞬間の出会いが静かに重なり合っています。
難しい理屈やラベルはいったん脇に置いて。
ただ「美味しいね」と笑い合い、お互いの物語がそっと触れ合うような「雑然」とした時間を、皆さんと一緒に過ごせたら嬉しいです。










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